古代エジプトと一神教の始まり

いつの時代にも権力者たちは人間や国を統治するために、
宗教を政治の一部として利用してきました。

もともと、この地球上は多神教が自然な形であり、
古代エジプト、ローマ、ギリシア神話には複数の神々が存在し、
日本も八百万の神、ケルト神話では妖精がいました。

世界初の一神教ができたのはエジプト、アメンホテップ四世の時。
(別名アクエンアテン。古代エジプト第18王朝のファラオ)

当時エジプトの勢力は強く、遠征で領土を広げていき、
大帝国を作り上げ「神の賜物」とアメンを祭る神官が崇拝された結果、
神官たちが王を抑えるほどの強い勢力になったことをアメンホテプ4世が嫌い、
宗教的権力を王権と一本化することを狙い、アテン神のみを崇拝し、
治世4年目(前1368年ごろ)に、王朝発祥の地テーベを放棄し、
新都アケトアテン(現アマルナ)に遷都しました。

従来の多くの神々の崇拝を禁じ、神々の像を破壊し、
唯一神アテンへの信仰に切り替え、
自らもアクエンアテンと名前を変えました。(アマルナ宗教改革)

その後、アメンホテップ四世はあまりにも宗教統一の為に
国内ばかりに力を注いだため、エジプトは弱体化し、
アメンホテプ3世の時代から王家に仕えてきた古参の臣神官アイは
ツタンカーメン時代に伝統的な神である
アメン信仰(アメン=エジプト多神教の主神)を復活させ、
首都をアマルナからテーベに戻しました。
そしてアテン神官、一神教徒たちをエジプトから追放しました。

ここで、旧約聖書に出てくるユダヤ⼈の始祖といわれる「アブラハム」は
このアメンホテップ四世の⽐喩であり、続く「創世記」「出エジプト記」は
アメンホテップ四世による宗教的権⼒を王権と⼀本化するための宗教改⾰、
そしてその後神官アイ(旧約聖書の神ヤハウェ)によるエジプト追放、
そしてカナン(パレスチナ)へ強制移住させた歴史なのです。

古代ユダヤ⼈を意味するヘブライとは「川を越えてきた者」と⾔う意味であり、
ユーフラテス川を渡ってきたオリエント雑民が
エジプトのアテン⼀神教の給付⾦を求めてアマルナに集まったのです。

ただし、カナンの地は当時前線であり、エジプトから追われた⼀神教徒は、
ヒッタイトがカナンから撤退するまで約40年もの間、砂漠の中でさまよいました。
もともとこのカナンの地は⼀神教がエジプトから渡来する前は
諸民族が雑居するオリエント多神教でした。

そこにエジプトを追われたアテン⼀神教徒が原住のカナン⼈と混住し、
通婚により古イスラエル⼈が誕⽣しました。

オリエント多神教と混住により、⼀神教の概念を捨て、
もともとの多神教が強まった北イスラエルと
アテン⼀神教を守った南部2⽀族に分かれ、
南が北から分離独⽴するような形でユダ王国が建国されました。

南部は荒野で牧畜の⽣活だったため、⼀神教の⽅が利⽤しやすかったのです。
北は稲作といった農業⽣活だったため⼀神教が浸透しづらかったと⾔われています。

その後はご存知の通り、アッシリアに滅ぼされた多神教の北10⽀族は世界に散らばり、
東⽅へ移動し⽇本列島に渡来したのはモノノベ、
また商業集団を率いた秦⽒の中に⼤陸から渡来した者も紛れ込んでいました。

秦⽒とは⼤秦帝国の国名の族称で本姓は「呂」とされ
秦始皇帝の実⽗とされる呂不⾱ ⼀族の末裔。
呂⽒は秦君、呂⼀族は秦⽒、集団が秦⼈。
ユダヤ人が商業集団に紛れ込んでいたのは事実と思いますが
呂⽒はユダヤ人ではありません。よく誤解されますが。

そしてこの⼀神教であるユダヤ教を基にしたのが原始キリスト教ですが、(イスラム教も)
ローマ帝国が東西に分割され、キリスト教からローマ教皇を⾸⾧とする
カトリック教会がつくられました。もちろん反勢⼒が出現します。
しかし、すでにカトリックが普及し、
教会が絶対的な勢⼒を持つヨーロッパに多神教が対抗するのは難しく、
その対処法として反教会勢⼒であるプロテスタントをつくり、
カトリック教会をさらに2分割します。

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